500年を振り返って:宗教改革とそれが系図探究にとって意義深い理由

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レスリー・アルブレクト・フーバー

宗教改革は500年前の1517年,マルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルクにある教会の扉に,今や有名となった95か条の論題を貼り出したときから始まりました。この小さな行動によって,ルターは後に歴史の流れを変えることになった一連の改革運動を引き起こしたのです。系図探求者にとって,1517年のこの出来事はとりわけ意義深いものです。宗教改革によって,記録管理の仕方もまた変わったからです。ここでは,500年前にマルティン・ルターが口火を切ったこの運動に注目し,この運動が世間一般に,また特に系図探求にどのような影響を及ぼしたかを見てみましょう。

宗教改革

宗教改革は,当時宗教界の全権を握っていたカトリック教会に対する不満に端を発して起こった運動です。95か条の論題で,地元の大学教授であったマルティン・ルターは,義認(または人が救いを得る方法),権力,罪から放免されるための免罪符の販売といったカトリック教会の教えに対し,教義上自身が意見を異にする点について詳細に述べています。反響はたちどころに現れ,数週間内に,95か条の論題はドイツ中に広まっていきました。数か月の内には,ヨーロッパ各地にまで達しました。その間に,スイスでウルリッヒ・ツヴィングリが,フランスではジョン・カルビン(ジャン・カルヴァン)が,とルターのほかにも彼が掲げた大義に賛同し,運動を先導する者が現れました。一方カトリック教会は,独自の反宗教改革に乗り出しました。その一つが,トレント公会議として知られる一連の会議です。1545年に始まったこの会議では,幾つかの点で調整を図りつつも,カトリック教会の教義および慣習の一部が再確認されました。

宗教改革が社会に及ぼした影響は驚異的なものです。宗教界に明らかな影響を及ぼしたほか,宗教改革はヨーロッパにおける勢力均衡にも大きな変革をもたらしました。カトリック教会とローマ教皇の権限に意義を申し立てながら,地域の支配者たちの勢力を増し加えていったのです。100年後,歴史上最も甚大な犠牲を生んだ戦争の一つである三十年戦争(1618-1648年)が,ヨーロッパ全域に広がりました。この戦争は,宗教改革がきっかけとなり広まった,宗教上の分裂によって引き起こされたものでした。一部の学識者は,公教育の成立,識字率の上昇,資本主義の発達の要因を宗教改革と結びつけています。系図探求者にとって,宗教改革による最も重要な成果の一つは,記録が保存される機会が増えたことです。

宗教改革直後の宗教と記録管理

宗教改革がもたらした宗教上の進展について理解すると,先祖が生きていた時代の宗教情勢を理解する助けになります。マルティン・ルターの95個条の論題の後,神聖ローマ帝国領域におけるドイツ語圏全域で,プロテスタント教会が出現し始めました(ドイツが国として存立するのは,かなり後になってからである)。その大部分はマーティン・ルターの教えに同調し,ルター派と称されました。新しい宗教は急速に広まり,すぐにスカンジナビアの住民の大部分がルター派教会に改宗しました。ジョン・カルビン(ジャン・カルヴァン)の信条もまた,オランダをはじめとする幾つかの地域で勢力を増していきました。

今日のドイツ国内のルター派教区の中には,1520年代に記録を取り始め,その記録の一部がわずかながら現存する所もあります。その後に,そのほかのルター派教区も続いて,記録を取り始めました。同様に,1530年に国王ヘンリー8世がカトリック教会に離反し設立したイングランド国教会もまた,この時期に記録を残し始めました。残念ながら,三十年戦争によってヨーロッパ全土が荒廃し,1648年以前の記録の多くが失われました。宗教改革はまた,出来事に関する教会記録,特に結婚の記録についての合意にも変化をもたらしました。カトリック教会の教えに反して,マルティン・ルターは,結婚を秘跡(サクラメント)に属するものとして考えてはいませんでした。そうではなく,結婚はあくまで世俗的慣習に属するものであるとしたのです。こうした信条が幾分発端となって,結婚に関する国の管理権および発言権がさらに強まり始めるにつれて,記録がより注意深く保存されるようになりました。

同じころ,トレント公議会によって,カトリック教会の記録管理にまつわる大変革が起こり,1564年に,同会議は結婚の記録を保存することを定めました。その後,1614年に,カトリック教会が発行したRoman Ritualによると,祭司はバプテスマ,および死亡を含む4種類の登録を記録するよう求められていました。

ヴェストファリア条約をもって三十年戦争に終止符が打たれ,カトリック,ルーテル派,カルビン派の3つの宗教が正式に認められました。各君主には,自国の宗教に関する決定権が与えられ,その結果,多くの地域はいずれか一つの主要な宗教を持つことになりました。例えば,後にドイツとなった北部諸州のほとんどは圧倒的にプロテスタントが占めたのに対し,南部諸州は大部分がカトリックに留まりました。ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約の宣言によると,この3宗派グループに属するキリスト教徒は,国教として選ばれた教会の会員ではなくても,信仰を実践する権利が保証されていました。

一方,宗教として承認されたこれらの3宗派の一つに属していない人々は,しばしば迫害を受けました。こうした非国教徒は,時として故郷を離れることを余儀なくされ,標準記録が一部残されていないこともしばしばでした。そうした記録が対立する権力者に見つかった場合,不利な証拠として提出される恐れがあったからです。

宗教上の記録を探し出し,活用する

ヨーロッパで暮らした先祖を追跡する系図探求者の多くは,教会記録が探求の主力となることが分かるでしょう。その理由は簡単です:教会記録は,総じて戸籍などのほかの記録よりも古く,ほとんどの場合,ほぼ全員が記録に含まれているからです。宗教は国家と非常に密接に結びついており,一般的に選択肢は存在しませんでした。だれもが教会に所属し,普通は国教会に属していました。つまり,あなたの先祖が財産をまったく持たない,あるいは影響力を持つ立場にない貧しい小作人であったとしても,教会記録に含まれているのです。教会記録には,家族の出生や結婚,および死亡の日付と場所をたどるのに必要な重要な情報が保存されています。

教会記録はファミリーサーチで容易に見つけられます。教会記録は地域別に保管されているので(教区によって),地元の教区管轄下の資料を調べて見つける必要があります。ファミリーサーチ・カタログにアクセスして,先祖が通っていた教会の町で検索します。ヨーロッパの一部の地域では,ほとんどの町ごとに教会がありました。そのほかの場所では,幾つかの小さな町から集まった人々がともに一つの教会に出席していました。自国に関する詳細については,ファミリーサーチのウィキを読んでください。国名を入力した後,教会記録および教会歴史に関する項目を探します。西ヨーロッパにおける教会記録の大半は,フィルム化またはデジタル化されてきており,東ヨーロッパにおいてもその数は増加しつつあります。まだデジタル化されていない記録については,マイクロフィルムのデジタル化が一日1,000本のペースで進んでいます。皆さんも,familysearch.orgで索引作成をすることで,ドイツの教会記録を検索可能にする手助けをすることができます。

宗教改革の影響は多くの地域に及んでいます。ヨーロッパ全域を揺るがし,宗教礼拝を恒久的に変えたばかりか,既成の秩序に反旗を翻し,政治権力をも再構築しました。今年がその500周年に当たることを知るとき,系図探求者たちもまた,自身の探求において宗教改革が果たした役割に思いをはせることでしょう。

 

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